アリナミン誕生ストーリー

1910

現在

Chapter.01

国民病の解決を
目指してビタミンの発見〜脚気の克服

かつて、人々を死に至らしめた脚気。

ビタミンの歴史を振り返ると、脚気(かっけ)という病気にたどり着く。全身がだるくなり、足のしびれなどの症状を起こし、やがて死に至ることもある。「江戸わずらい」などと呼ばれ、長い間原因不明とされてきた。明治時代になると毎年50万人〜100万人が発症し、1万人〜2万人の死亡者が出ていた“国民病”とされる。政府が脚気病院を開設するなど、国をあげて原因究明に取り組んでいたのだった。

洋食への変更で、患者が激減。

日本中で近代化が進むころ、陸軍と海軍で「脚気論争」が展開されていた。日本海軍の軍医高木兼寛は、軍艦筑波の航海で米を減らしてパンと牛乳を加え肉と野菜を多くするなど食事内容を変更。287日にわたる航海中、洋食を拒否した14名の患者が出ただけで、死亡者はゼロに。対する陸軍は、脚気の原因は細菌感染という立場をとり患者が続出。その後、陸軍の一部では米麦混合食を採用することで、脚気患者の発生を減少させた。

白米の栄養素を補う米ぬか。

脚気の原因解明のために、世界で盛んに研究が行われていた。1889年、オランダの医学者エイクマンが脚気の歩行障害に似ているニワトリ多発神経炎を見つけ、その原因は細菌感染ではなく、白米とデンプンのみの食餌で発病すること、玄米では発病しないこと、米ぬかを与えると治癒することを発見。後に白米には必須栄養素(予防因子)が不足、これを米ぬかが補っているという考え方にたどり着く。

脚気を治す物質の発見。

世界の研究者たちが探索研究を進める中、遂に日本でも大きな動きが起こる。日本で最初に脚気を治癒すると考えられる物質の発見である。1910年、鈴木梅太郎博士がアベリ酸を米ぬかから分離することに成功した。のちにオリザニンと名付け、未知の栄養素として論文を発表。その翌年、ポーランドのフンクは米ぬかから抗脚気因子を精製分離したことを報告する。1912年にこの物質を生命の(vitalに由来するビタ)窒素化合物(アミン)、ビタミンとすることを提案した。

さまざまなビタミン発見の始まり。

医学も他の学問と同様に、過去からの積み重ねによって発達してきた。その摂理は、ビタミンの発見についても同じだ。ビタミンの生みの親は、古来より続く難病=脚気といえる。この抗脚気ビタミンの発見を契機に、人類史上未知であったビタミンはすべて20世紀の前半までに続々と発見されていく。そして、1927年にこの抗脚気ビタミンは、ビタミンB1と呼ばれることになる。

Chapter.02

偶然から生まれた
世界初アリチアミンの誕生

高価な天然物質から一般的なものへ。

脚気の原因が判明して以来、医薬品としてのビタミン剤の登場が望まれていた。当時は、米ぬかから抽出した製剤(粗製ビタミンB1製剤)が主流。これらは有効成分の含有量が少なく不安定で、明確な効果を期待することはできなかった。また、ビタミンB1は、ぬか300キログラムから100ミリグラムしか分離できない高価な天然物質であり、実用化にはほど遠く大量生産の方法確立が急がれていた。ビタミンB1製剤が安価に供給されるようになるのは1940年以降のことだった。

ビタミンB1を分解してしまう酵素の発見。

いくらビタミンB1を投与されても欠乏が改善されない人がいた。藤田秋治博士(京都府立医科大学名誉教授)がアサリ、ハマグリ、シジミなどの貝類中にもビタミンB1分解酵素を発見、アノイリナーゼと命名。一方、藤原元典博士(京都大学名誉教授)は、ワラビ、ゼンマイ、ツクシなどに強力なビタミンB1分解因子の存在を明らかにした。そして、ワラビなどには魚介類に含まれている熱に弱いアノイリナーゼが存在すること、その他に耐熱性のビタミンB1分解因子も存在することを発見した。

ニンニクに宿る、未知の知見。

研究を進めていくと、ビタミンB1分解因子は、ニンニクにも含まれることが判明。さらにほかのそれを圧倒していたことから、藤原博士は単なるビタミンB1分解因子でなく、新しい重要なものではないかと思い至る。そして1950年12月、ニンニク浸出液にビタミンB1を混ぜると添加したビタミンB1が測定不能のものになること、不顕化されたビタミンB1(ニンニクB1)をネズミに与えるとビタミンB1と同様に有効であること、ニンニクB1は体内で完全に元に復元されることなど、従来まったく未知であった新知見の数々を報告した。

世界初のビタミンB1誘導体。

この研究のしめくくりとして、藤原博士はニンニクによって不顕化されたビタミンB1の浸出液を飲んでみようと提案。研究者全員で苦い汁を飲むと、従来に比べて約10倍の量のビタミンB1が尿に排泄された。世界初となるビタミンB1誘導体が発見されたのである。この結果をビタミンB研究委員会において報告するべく、藤原博士が東京に向かった1951年9月。アリナミンの歴史が急速に幕開けに向かうことになる。会場に向かう都電の中で、武田薬品の松川泰三は藤原博士と偶然出会った。ニンニクによって不顕化されたビタミンB1を新たに発見したという博士の言葉に、松川は共同研究の相談を持ちかけたのだった。

共同研究で加速するアリチアミン研究。

「大阪に戻ったらすぐに研究開始だ」。壇上に立つ藤原博士の言葉を耳にしながら、松川は決意を新たにしていた。同月のうちに共同研究がスタート。1952年3月、藤原博士はニンニクB1の結晶が得られたこと、人体に投与するとニンニクの浸出液で得られた易吸収性の成績などと一致したこと、以後この物質をアリチアミンという学名を付したいこと、アリチアミンはニンニク中のアリナーゼアリインに作用してできたアリシンがビタミンB1に作用してできることなどを報告した。これら数々の発見がアリナミンの誕生を大きく手繰り寄せることになる。

日本初のビタミンB1誘導体製剤。

この後、多数のアリチアミンの同族体の合成、物理学的・生物学的評価が武田薬品で連日連夜行われた。その結果、体組織との親和性が高く、化学的に安定性もよいプロスルチアミンを選択。このプロスルチアミンこそプロドラッグの第一号といえる。1954年3月18日。ついに、日本初のビタミン B1誘導体製剤「アリナミン糖衣錠」を世に送り出したのだった。次第に病院や薬局などで繁用されるようになるにつれ、脚気患者は激減。明治以来の「国民病」という汚名を返上することになった。脚気の克服にビタミンB1誘導体が果たした役割が、大きいものであったといわざるをえない。

Chapter.03

ニンニクの
においからの脱却アリナミンF〜アリナミンA

ブランドとしての信頼感を獲得。

1958年、東京タワーの完成など、好景気を享受していた日本。タケダは人気テレビ番組に提供し、 “タケダ、タケダ、タケダ~”のサウンドロゴを使ったCMを展開した。アリナミンはブランドとしての高い知名度や信頼感を獲得することに成功し、毎日を元気に過ごしたい願う人々に広く認知されていく。

国内外で認められ、さらなる進化へ。

多量のビタミンB1誘導体を神経痛に使う。1959年、フランスから一つのニュースが入ってきた。国内でも各種神経疾患に対する臨床知見が続々と報告されていた時期と重なる。フランスからの反響を契機に、アリナミンは新たな進化に挑戦。においの少ないビタミンB1誘導体のニーズが高まり、プロスルチアミンの弱点であったニンニク臭の研究が始まったのだ。

においを解決したコーヒー。

ある日、武田薬品の研究室で劇的なヒントが舞い降りる。ヨーロッパでは、ニンニクのにおいを消すために食後にブラックコーヒーが飲まれていることが話題になったのだ。芳香成分であるフルフリルメルカプタンの活用に着目。分析と改良が幾度となく繰り返され、フルスルチアミンという画期的なビタミンB1誘導体が誕生、1961年4月、「アリナミンF」として販売されることになる。従来のニンニクのにおいを大幅に抑制したその商品は、テレビCMや提供番組により大きな話題を博したのだった。

現在も代表する商品の誕生。

1965年、高度経済成長をひたすらに突き進んでいた日本。人々が猛烈に働き、食生活の変化に伴い、新しい形の疲れが生まれていた。それに対応すべく、ビタミンB2ビタミンB6ビタミンB12を加えた「アリナミンAシリーズ」を発売。現在もタケダを代表する商品として人々を支え続けている。

アリナミンを証明する3年の審査。

医薬品には、再評価制度というものがある。過去に承認を受けた医薬品を、その時点の学問水準に照らして品質や有効性、安全性を確認する。アリナミンは再評価第一号の指定を受け膨大なデータを厚生省に提出。1972年から約3年間の審査を経て、科学的あるいは学問的水準からみて充分な薬効を有することが客観的に証明されたのだった。

Chapter.04

時代の疲れに、
対応し続けるアリナミンF〜アリナミンA

社内でさえ否定的だったドリンク剤。

1975年ごろから、アリナミンのドリンク剤の開発が始まった。当時武田薬品が実現できていない商品ジャンルの一つであった。関係者や社員からも提案されていたアイデアにも関わらず、着手されなかったのはなぜか。それは、「フルスルチアミンは苦いうえ特有なにおいがあるから、これを液剤として製品化できるわけがない」という否定的な声が多く、技術上の課題も山積みだったからだった。

膨大なテストの先に。

開発を進めて数年、大きな訃報が研究室に届く。アリナミンの生みの親、松川が鬼籍に入ったのだ。「松川さんが研究されたころの苦しみはこんなものじゃない」。製剤研究所の清水久義らは、悲しみを乗り越えドリンク化に没頭する。最大の難関は、フルスルチアミン特有のにおいだ。さまざまな成分でサンプルを作り、「きき酒」の要領で実際に飲みうがいをしてまた次のテストへ。独特のほどよい苦味はそのままにした。調査の結果その方が効くという回答が多かったからだ。飲みやすいドリンク剤として、1987年遂に「アリナミンV」の誕生を迎えることになる。

新しいターゲットを掴んだマーケット戦略。

支持を得ていたアリナミン錠剤と同じ成分のアリチアミンを含有。ターゲットは、若手サラリーマンを想定し、さらに、従来の元気路線と一線を画す爽やかなドリンク剤を目指した。その結果、ホワイトカラーのビジネスマン層へのアプローチが切り拓かれたのだった。

IT化の波に、疲れも変化する。

時代の移ろいとともに、人々が感じる疲れも変わる。商品も変わり続けなければならない。アリナミンの多彩なラインアップは、その証である。代表的な一つが、「アリナミンEX」。1990年代に入ると経済構造そのものが大きな変化を遂げ、ワープロなどのOAディスプレイが普及。オフィスにもIT化の波が押し寄せ、ワークスタイルに変化が訪れていた。

デフレ不況の時代を支えるために。

「体を動かすことで感じる疲れ」から、「体を動かさずじっとしていることで感じる疲れ」へ。目・肩・腰の症状を訴える人を支える新しい力として、アリナミン40周年の節目である1993年に、「アリナミン EX」を発売。その後、本格的なデフレ不況の時代に突入すると、ストレス社会は加速化し、疲れのシーンもさらに多様化していくことになる。

変化し続ける疲れに向き合う。

2001年「アリナミン7」、2009年「アリナミンR」、2012年「アリナミンゼロ7」、2013年「アリナミンRオフ」「アリナミンEXゴールド」、2014年「アリナミンV&Vロイヤル」、2016年「アリナミンVゼロ」、2019年「アリナミンメディカルバランス」。それぞれ個性を持った商品たちは、多様化する疲れのシーンを解消すべく生まれた。令和も、アリナミンの進化は終わらない。まだ見ぬ疲れがある限り。